「空に月が輝く時」・11

「キミだって悪い気はしなかっただろう? まあ行き過ぎた思いは、さっきのキスで勘弁してよ」
「アンタはどこの結婚詐欺だっ!」
「あはは。詐欺師呼ばわりされるとは、思わなかったよ」
 笑いながらも、俺の腕を掴む力は緩まない。
「なっ…んで」
「ん?」
「何でもっと早くに…捨ててくれなかったんです?」
 声に力が入らなかった。
 頭の良い彼が、兄への思いに決着をつけるのにそんなに時間がかかったとは思えない。
 少なくとも、俺が彼を好きになり始めた時には、すでに分かっていただろう。
「…さて、それは僕にもよく分からない。キミが高校を卒業するまでは、と仏心が出たのかもね」
 そして同時期に、大病院への移転の話が出た。
 彼が俺から離れるのには、充分な理由になった。
「…ヤです」
「なに?」
「イヤですっ! こんな終わり方、俺は嫌ですっ!」
 俺はみっともなく、彼の胸にしがみ付いた。
 涙を流しながら。
「イヤだと言われてもねぇ。引っ越し先はここからかなり遠いし」
 ぽんぽんと宥めるように俺の背中を叩きながら、彼は優しく諭すように言う。
「電話やメールがあります!」
「やっても、なかなか会えないよ?」
「お医者さんでも週末は休みなんでしょう? 会いに行きます!」
 バカなことをしているとは分かっていた。
 どんなに縋ったところで、切られることも…。
「参ったね」
 彼は俺の頭上で軽く息を吐いた。
 まさかここまで俺が執着するとは思わなかったんだろう。
 彼は俺の両肩を掴み、ゆっくりと引き剥がした。
「はっきり言おうか? 僕はキミが大キライなんだ」
「っ!」
 真っ直ぐに笑いながら言われた言葉は、身も心も衝撃を与えた。
 …思わず息も止まるほどに。
「人の心に鈍くて、なのに真っ直ぐに向かってくる純粋さは、僕にとっては苦痛でしかない。…せめて八雲のように、察しが良ければよかったのに」
 兄は彼の闇の部分にこそ気付かなかったものの、彼の心の機微は鋭く感じ取っていた。
 だから…兄は彼の傍にいられたのだ。
 彼は本当に残念そうに微笑む。
「そこまで好きでいてくれるのは嬉しいけど、ゴメンね?」
「あっ…」
 ―終わった。
 終止符が今、打たれたのだ。
 俺はきつく目を閉じながら、彼から手を放した。
「それじゃあ、元気で」
 頭を優しく撫でられた。
 彼は最後まで笑みを浮かべ続け、俺の前から去って行った。



 …その後、俺は部屋の中に引きこもるようになった。
 心配した両親が何度も話しかけても、無視をし続けた。
 そうして夏が終わろうとする頃、兄が実家に戻ってきた。 
 そして半ば強引に実家から引きずり出され、今の会社に就職させられた。
 最初のうちは兄と同居していた。
 けれど仕事をしているうちに立ち直っていき、冬になる前には今のアパートに越してきた。
 時々、兄の口から彼のことは聞いていた。
 そのたびに心が激しく揺れるのを、抑えるのに必死だった。
 俺が引きこもっていた理由を、兄は聞いてこなかった。
 それはありがたいことだったけど、彼のことを聞くのは大きな苦痛だった。
 …そう、今でも胸が苦しくなるぐらい、俺はこの人のことを…。
「…前は俺から逃げたのに、今度は俺の所に逃げてくるっておかしくないですか?」
「そうだね。でもキミのせいでもあるんだよ? あの時拒絶してくれたら、すっきり忘れることができただろう。なのに追い縋ってくるものだから、全然忘れることができなかった」
 …それは果たして、俺のせいなんだろうか? 
 思わず遠い目をしてしまう。
 彼は彼で、俺とは別の意味で遠い目をしている。
「式まで決めても、キミのあの時の顔がずっと浮かんでた。だから婚約を破棄してもらったんだよ」
「…『してもらった』? 『した』んじゃなくて?」
 そこも疑問だった。
 彼がフッたのか、フられたのか、どっちなんだろうと。
 しかし彼はニヤッと悪魔の笑みを浮かべた。
「正確にはするように、仕向けた。彼女、父親に言われて医者と結婚するってずっと思っていたらしくてね。でも趣味でピアノをやっていた」
「はあ…」
「そのピアノの腕前、プロでも通用するんじゃないかってずっと言い続けていたんだ。そしたら昨日、いきなり結婚しないで、ピアノを学ぶ為に外国へ留学したいって言い出した」
「………」
 俺は口を開いたまま、言葉が出せなかった。
 それはつまり、彼が彼女をコントロールしたということだろうか?
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