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「空に月が輝く時」・5

 彼の姿を見かけるたび、そして名前を聞くたびに心が躍った。
 その感情の名前には気付いていたけれど、受け入れてもらえないことは分かっていた。
 彼の眼が、自分ではなく兄の方に向いていたことは知っていたから。
 それでも良かった。
 何にも分からず、知らないフリをしてくれていればよかったのに…それすら彼は許しちゃくれなかった。
「そんなに憎かったのかよ?」
 思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
 彼は兄にコンプレックスを抱いていた。
 けれど能天気な兄は、親友の暗い感情に全く気付かなかった。
 それが余計に彼を苛立たせたのだろう。
 だから彼は俺に構った。
 優しく接してくれた。
 好意を持つよう、わざとそう振る舞った。
 そして八年前、俺が高校を卒業した日、彼はあの街を出て行った。
 俺を、捨てる為に。

 だんっ!

 …気付けば壁を叩いていた。
「ダメだ。やめよう」
 昔を思い出せば思い出すほど、彼への気持ちが分からなくなる。
 憎しみだけでいいんだ。
 もう彼には何も求めちゃいけない。
 頭を振り、俺は気持ちを切り替えることにした。



 彼が風呂場から出てくる前に、俺はスーツに着替え、会社へ行く準備も済ませていた。
「服、ありがとうね」
「どういたしまして」
 なるべく彼に似合いそうな服を選んだが、…どうしても俺の趣味だからな。
 微妙な感じがしてしまう。
「スーツ、一応消臭スプレーをかけました」
 そう言ってスーツが入った紙袋を差し出す。
「何から何まで、面倒をかけたね」
「ええ、本当に。今後もう二度と、こういうことはしないでくださいね?」
「気を付けるよ」
 …弱々しく微笑まないでほしい。
 彼にはそういう顔は似合わないから。
 奥歯を噛みしめ、俺は玄関を顎でさした。
「もういいですね?」
「ああ、行こうか」
 二人でアパートを出て、駅へと向かった。
「じゃあここまでだね。本当にありがとう。空耶くん」
「…いえ、大したお構いもできませんで」
「あはは。それじゃあ仕事、頑張ってね」
 優しく微笑み、俺の頭を撫でて彼は背を向けた。
 …俺の頭を撫でる仕草、変わっていないのが憎らしい。
 思わず泣きそうになってしまう。
 それを堪えながら、俺もその場から離れた。



 電車を乗り継ぎ、向かった先は駅の前にあるビルの中。
 ここの十四階のフロアが、俺の職場だった。
 ガラス戸を開けると、見慣れた兄の姿を発見。
「おー、空耶。おはようさ…って、うわっ!」
 
 ばしんっ!

「…ちっ。止められたか」
「なぁっ! お前、何で朝っぱらから殴りつけてくるんだよ!」
 そう言うが、顔に届く寸前に手で受け止められてしまった。
 さすがは運動神経抜群なだけはある。
「てめぇ、櫂都さんに俺の住所教えただろう?」
「カイ? …ああ、そう言えば一年ぐらい前に教えたな」
 しかも一年前かよっ!
「何だ? カイが遊びに行ったのか?」
「昨夜、ウチの前に座り込んでいたんだよ。何でも婚約がダメになったとかで…」
 さすがに声を潜めた。
 周囲には出勤してくる社員達がいるから。
「あちゃ、ダメになったのかぁ。もう式も決まっていたのになぁ」
 兄も顔をしかめ、気まずそうに声を小さくする。
「ままっ、ちょっと来いよ」
 背中を押され、連れてかれたのは会議室だった。
 今は誰も使用していない。
 俺と兄はテーブルをはさんで、向かい合わせにイスに座った。
「カイのヤツ、三年前から今勤めている病院の医院長のお嬢さんとの縁談があったみたいなんだ」
「へぇ。逆玉じゃん」
 しかも向こうからの話なら、あちらが彼を気に入ったということ。
 …外面は良いからな、あの人。
「まあそうだな。でもカイはあんまり気乗りしなかったみたいでな。返事を延ばしてたんだ」
「相手に何かあったのかよ?」
「いいや。オレも何度か会ったことがあるが、物静かなお嬢様って感じだった。カイより七歳年下で、お前と同い歳だったな」
「…そう」
 俺と同じ歳か…。
 何か少し複雑な気分だ。
「まあ傍から見れば、美男美女で絵になりそうなカップルだったな」
「ふぅん。文句の付けどころなんて、なさそうだけど」
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