「空に月が輝く時」・1

2011.09.02(00:22)

 ケータイで時間を確認して、俺は深く重い溜息を吐いた。
「今日も午前様かよ…」
 チっと舌打ちするが、暗い夜空を見上げれば怒りも僅かに静まる。
「今日は月が見えないな」
 名前に空という文字が入っているせいか、昔から空を見上げる癖があった。
 天気の移り変わりを見ていると、嫌な気分も薄らいで落ち着いたものだ。
 今住んでいる二階建てのアパートは、高校を卒業してから住んでいるから、もう住み始めて八年になる。
 住宅地に平成初期から建っているが、そこそこ住みやすくて俺は気に入っていた。
 だけど職場からは遠く、また駅からも遠かった。
 コンビニやスーパーが近くにあるが、不便を感じてしまう。
「そろそろ引っ越すかな」
 金もないワケじゃないし、会社近くのマンションを借りることを考えていた。
 だが仕事が思ったより忙しく、なかなか引っ越し先を見つけられないというのがある。
「有給取ってでも探すことでもないしな」
 夜道を一人、ぶつぶつと言えるのも、人気がないおかげだ。
 俺は結局、仕事が暇になってからといういつもの考えにたどり着き、早く家に帰ろうと足を進めた。
 アパートは住人のプライバシーを考えてか、造りはマンションに近かった。
 ドアの前には壁があり、表札などを道行く人が簡単に見られないようにしてある。
 こういう造りであれば、雨の日などは楽だ。
 それに部屋に入るところを、人に見られたくはない。
 アパートの裏側はちょっと広い庭のようになっていて、垣根が中を見られないようにしてくれている。 
 おかげで人目を気にせず過ごせるところが気に入っていた。
 仕事が忙しい分、あまり人とは接したくなかった。
 人嫌いなワケじゃない。
 ただ、必要以上の付き合いはしたくないだけ。
 こう考えるようになったのは、いつの頃だったか…。
「…やめやめ。さっさと風呂入って、飯食って、酒飲んで寝よ」
 月が見えないせいか、気分が落ち込み気味だ。
 やっぱり街灯の光だけじゃ、気分までは照らされない。
 カバンと、コンビニから買ってきた食料を入れたビニール袋を揺らしながら、肩を竦めた。
 アパートが見えてきたので、スーツのポケットから家の鍵を取り出す。
 俺の部屋は一階の角部屋。
 いつものように向かうと、玄関の前で人影を見つけ、足を止めた。
 この廊下には電球の明かりがあるが、しかし玄関にいる人物は、明かりの届かない場所にいて、影になってよく見えない。
「…誰だ?」
 こんな時間に訪ねて来る人はいない。
 俺は恐る恐る近づいた。
 人影は玄関の扉に背を預け、座って俯いていた。
 近付くにつれ、強いアルコールの匂いが漂ってくる。
「酔っ払いかよ」
 面倒だ。
 最悪、救急車でも呼ぶか。
 顔をしかめながら近づいた俺は、だが人物の姿をはっきりと眼に映した瞬間、思わず立ち止まった。
 色素の薄い茶色の髪、長く伸びた手足。
 そして…瞼を閉じたその顔には、見覚えがあった。
「…宮下(みやした)櫂都(かいと)、さん」
 呟くような俺の声が聞こえたのか、彼の瞼がピクッと動いた。
 そしてゆっくりと眼を開き、こちらを見る。
「あっ…」
 心臓が鼓動を早くする。

―逃げたい。

 そう思ってしまう。
 俺はこの人から、逃げなければならない。
 じゃないとまたっ…!
「…久しぶりだね。空耶(くうや)くん」
 八年ぶりに聞く彼の穏やかな声に、ドクンッと心臓が高鳴った。
「どっ…してここに?」
「うん。ちょっと飲み過ぎちゃって」
 そう言って上げた右手には、ウイスキーの瓶が握られていた。
 ほとんど飲み尽くしたのか、軽い水音しか鳴らなかった。
「…飲み過ぎて、何で俺の所に来るんですか?」
 声に険が滲んでしまう。
 きっと顔も怒りの表情になっているだろう。
 握った手が汗ばむ。
「終電なくなっちゃって、帰れないんだ。泊めてくれない?」
「はあ?」
「この辺りに知り合いもいないし、ホテルもないだろう? 頼れるのって、キミんとこしかないんだ」
 彼は俺のこと言うなんて、まるで聞いていないかのように話を進める。
「…電車がないなら、タクシーを呼べば良いでしょう?」
「ヒドイなぁ。介抱してよ」
「あなたなら俺でなくても介抱してくれる人はたくさんいるでしょう?」
「いないよ、そんなの」
 彼は軽く笑い、ウイスキーを飲んだ。
「ちょっちょっと」
 慌ててその瓶を引っ手繰る。
 すでに抗う力もないのか、彼は瓶を持っていた手を下げた。
 眼も虚ろで、口からは零れたウイスキーが流れているが、拭う気力もないらしい。
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